2021.01.18公開

[川と水辺の歴史旅◆北海道の治水]
十勝川の治水の歴史-1

十勝の先駆者 依田勉三を苦しめた十勝川

北海道を代表するお土産のひとつ、六花亭(ろっかてい)の「マルセイバターサンド」。その包み紙のモデルになっているのが、明治期の十勝開拓に取り組んだ依田勉三(よだべんぞう)が立ち上げた「晩成社(ばんせいしゃ)」の商品ラベルだということは、あまり知られていません。
「マルセイ」とは、晩成社の「成」の字をマルで囲んだもので、「晩成社」が用いたバターの商標でした。

十勝地方の産業の基礎を作ったとされる勉三は、嘉永6年、静岡県伊豆国那賀郡大沢村に生まれました。19歳で上京すると慶應義塾(けいおうぎじゅく)に進み、未開の北海道開拓に大きな夢を抱きます。明治16年に政府から未開拓地の払い下げを受けると、13戸27人と共に十勝平野の下帯広(オベリベリ)の地から開拓に着手しました。目の前に広がる原野を前に「1万町歩(100平方キロメートル)の開墾(かいこん)」という大きな計画を掲げました。

勉三とともに入植した一行は、稲作や麦、野菜の栽培に挑みましたが、冷害やバッタ、ノネズミの襲来などが繰り返され、水田を除くほとんどの事業が失敗に終わりました。厳しい気候と開墾の過酷さから十勝を逃げ出す人もたくさんいました。


晩成社史跡公園(大樹町)には、勉三が住んでいた住居が復元されています。

農業の困難さを目の当たりにした勉三が、次に手がけたのが牧場経営でした。生花苗(おいかまなえ:今の大樹町)に1万ヘクタールの土地を得て牛馬の飼育を始め、バター生産を始めました。晩成社の名を付けた「マルセイバタ」の評判は上々でしたが、販売先を見つけるのに苦労したり、輸送コストが高かったりして、長くは続きませんでした。

勉三はこのほかにも、でんぷんの製造、養蚕、リンゴ栽培、亜麻栽培、しいたけ栽培、い草栽培など、たくさんの事業に取り組みましたが、そのいずれも成功を収めることはありませんでした。しかし、後の時代の人たちは勉三が取り組んだことや失敗を糧にして、現代の十勝の産業を発展させていったと言われています。生まれるのが1.5世紀ほど早すぎたのかもしれませんね? 大正14年、勉三は73歳で亡くなりますが、その死の間際「晩成社には何も残らん。しかし、十勝野には…」と言い残したと伝えられ、最後の最後まで夢を追い続けた人のようです。

十勝で養豚を始めたのも勉三と晩成社といわれています。豚肉は当初、庶民には貴重なものでしたが、昭和になって庶民にも食べられる料理ということで、うな丼をヒントに甘辛いタレを絡めて焼いた豚丼が広まりました。今では帯広の郷土料理として全国に知られています。

また、古くから六花亭の銘菓として親しまれている鍋型のもなか「ひとつ鍋」も勉三の句に由来します。入植まもなくのこと、夏の長雨で農作物の収穫は皆無。食事も家畜の餌(えさ)にも等しかったときに、同僚が「落ちぶれた極度か豚と一つ鍋」と惨(みじ)めな生活を嘆いたときに、勉三は「開墾の始めは豚と一つ鍋」と“開拓当初はそれが当たり前だ”と、いさめたそうで、この句からつくられた菓子が「ひとつ鍋」です。

生前、緑綬褒賞(りょくじゅほうしょう)をはじめとする数々の栄誉に輝いた勉三の銅像が、昭和16年、帯広神社前の中島公園に建てられました。銅像建設に尽力した帯広市議会議員の中島武市はシンガーソングライター、中島みゆきの祖父としても知られています。戦時中に金属応召(きんぞくおうしょう)によって供されましたが、昭和26年に再建されました。


中島公園(帯広市)に建てられた依田勉三の像

勉三が事業で失敗を重ねた理由は諸説有りますが、そのひとつとされているのが十勝川の洪水被害です。明治31年の大洪水では、勉三の亜麻(あま)工場も被害を受けています。大雨の度に氾濫を繰り返す十勝川は開拓者を苦しめ、十勝川の治水対策は往時の人々の大願だったと考えられています。


大正11年の洪水写真(池田町千代田、利別地区) 「十勝川 写真で綴る変遷(へんせん)」より

晩成社史跡公園 マップコード:699 282 207*78

中島公園 マップコード:124 655 288*28

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